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OZ DAYS LIVE

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かつて吉祥寺に、ロックハウス「OZ」がありました。1972年6月に開店し1973年9月に閉店するという1年2か月のとても短い期間の存在でしたが、伝説となっています。ライブの出演者が強力です。久保田麻琴と夕焼け楽団、裸のラリーズ、南正人、タージ・マハル旅行団、カルメン・マキ&OZ、安全バンド、四人囃子、クリエイション、頭脳警察、都落ち、アシッドセブン、ゲッセマネ、ウエスト・ロード・ブルース・バンドと、アンダーグランド色、アシッド色が強いです。閉店を前に、OZに関わりが深く人気の高かったアシッドセブン、都落ち、南正人、タージ・マハル旅行団、裸のラリーズが、昼間、OZの店内で録音するという形でレコード「OZ DAYS LIVE」が自主制作されました。この盤がCDで復刻されています。OZは、その後、企画制作グループとして、1973年11月に「エレクトリック・オールナイト・ショー」、1974年4月に「OZ YAA HOUSE」というコンサートを開催しています。ロスト・アラーフと裸のラリーズが中心となってOZの仲間達と結成した「ブルー・チアー・カンパニー」は、「エレクトリック・ピュア・ランド」というコンサート・シリーズを企画します。

■ニューミュージック・マガジン1972年8月号

(略)ロック喫茶のほうは、相変わらず増えているようで、東京周辺でも新しい店がふたつできた。(略)もうひとつは吉祥寺駅東口の近くの“OZ”という店。ラフにペンキを塗ったような感じの、広いスペースの店で、気軽に音楽をきけそうな雰囲気が特徴。コーヒー、紅茶などが120円。生演奏の時間もあり、その間は80円追加になる。

■ニューミュージック・マガジン1972年10月号

吉祥寺駅東口のロック喫茶「OZ」では、月曜日をのぞく毎日午後5時から7時半頃まで生演奏をやっており、バナナ・フィッシュ、ゲッセマネ、四人ばやし、安全バンド、三和音、はちみつぱい、異邦人、エレクトリック・モス、灰野敬二などがよく出演している。なお、毎日開店するまでステージを練習場として貸している。時間は午後0時から2時半までで、使用料は1500円。また、毎週金曜日にはテーマを決めて現代音楽や民俗音楽のレコード・コンサートをやっているほか、フィルムや演劇の催物にも会場を提供したいとのこと。手工芸品の展示即売もやってくれる。

■ヤング・ギター1973年2月号

MUSIC PLAZA IN KICHIJOJI TOWN

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吉祥寺の北口に陰陽なムードをもつ、ロック喫茶オズを訪れてみよう。出入口は多少チラシなどで散らかっていて、2階のトビラを開けると、ヘンテコリンな感じを受けた。そうそのヘンテコリンとは、OZの名道理の魔法の国へ突然、飛び込んだような、錯覚を感じた。そこのマスター手塚実サンに、インタビュー!

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YG こんにちは!いつ頃から、オープンしたのかしら?

手塚 昨年の6月に。

YG 店名“OZ”の由来は?

手塚 何んだと思いますか?そう“オズの魔法使い”や英国に“OZ”と云う雑誌があるでしょう。それをヒントに得て、店名にした。

YG お客サマには、どんな人が多い?

手塚 音にウルサイネ。

YG ステージに楽器がセットされているのだけれど、ここでは生演奏するの?

手塚 そう、今夜は、シバと品川寿男とボクでセッションする予定。

YG ここの従業員は殆どバンドを、組んでいると云う話だけど、そうなの?

手塚 そうです。ウォーキング・バンド(ブルース系)とか、自然児ノブとソックス。

YG お客サンの流動は?

手塚 8時まで一般向け、それ以降は大人の世界です。

YG 大人の世界???天井には、ライティングシステムがありますが、ステージ用ですか?

手塚 まァええ、演劇用が本当だけど。

YG 営業タイムは?

手塚 午後3時~夜11時まで。

YG OZの特徴は?

手塚 当店の食べ物のメニューはいかがでしょうか?ピンク・フロイド風スープ、カントリー焼きソバ、ロックうどんとか、試食してみては、アナタ。そう読者の皆さんも来て下さい。また安ですヨ、ホント。

YG ありがとう!

■ニューミュージック・マガジン1973年4月号

東京での数少ないロックの常演空間であった吉祥寺のロック喫茶「OZ」は、近くとりこわされることになりそうだ。これに先立ち、『OZ LAST DAYS』(仮題)と題された、OZ記念のアルバムが自主制作されている。このアルバムには、都落ち、南正人、裸のラリーズ、タジ・マハール旅行団など、OZに関わりが深く、人気の高かったグループやアーティストが、昼間、OZの店内で録音する、という形で制作していたもの。2枚組で今春発売予定。予約受付中。

■ヤング・ギター1973年7月号

吉祥寺の「OZ」を日曜日にのぞいてみたら・・・・・・・・・(大川ガチコ)

(略)5月20日(日)吉祥寺の東口を降りて歩いて1分の所に『OZ』があります。この日は、以前Y・Gに人物クローズ・アップで登場してくれた久保田麻琴さんが出演する日です。前々から一度聞きにきて下さいと言われていたので、ではではと行くことになったのです。このお店はバラックを改造した感じで2階へドカドカ上っていくのです。静かに歩いてもドカドカとするのです。中に入ると幼稚園のイスみたいな可愛いのが雑然と置いてあってテーブルはビールのあき箱です。全体に汚く、うす暗い感じで、貧しさがまたほほえましいという妙な印象。この店の常連もカナリいる様子ですが、夕方5時半頃になると店内はどこからともなく集った若者たちでいっぱいになりました。第1部のグループ登場。金沢からはるばるやってきたロック・グル-プの名は『メンタンピン』といいます。私はマージャン知らないけど、マージャン用語なんだろうね、これ。一寸、モップスの鈴木ヒロミツを思い起こさせるのがリード・ヴォーカル。まだまだ、一曲一曲を演奏するのが精一杯という感じでしたけど、元気いっぱい歌っていました。ブルースとロックン・ロールをベースにしたバンドでこれをうまく日本語に乗せて歌うんですが、あと少し個性がでるとオモシロイ、グループにも育ちそうです。ガンバレ金沢のメンタンピン。一部が終って、まずいコーヒーを手持ちぶたさにまかせて飲みながらあたりを見るとアラ、知り合いがいましたよ。「中川くんじゃありませんか、久しぶりね」「オーッ」と何年ぶりかのご対面。この中川さんという人は以前は日本フォノグラム・洋楽部でチラシを作ってたらしい人で、最近は実家の金沢あたりに引っこんでいます。とはいっても『メイク・ラブ・カンパニー』とかいう店を持って、彼なりにはしゃいでいるらしいんだけど、やっぱり東京のようにはゆかないらしくて、彼はいつもヒマだそうです。それで、ヒマになるとすぐ店を閉めて遊びに行っちゃうから、たまに来た客もあきらめて帰っちゃうらしい(?)。そのひまに金沢で新グループの養成をしているみたい。今日はこの“OZ”に登場した、メンタンピンの世話役に上京したのかな?聞く所によると金沢にもまだまだ割とカッコイイ、グループがいるということです。(略)さて、話は戻りますが第2部は久保田麻琴さんとその一派の出演。相変らずジーンズの上下に長い髪を結んで、顔には微笑み浮かべている久保田さん。この日の出演のチラシに“スター誕生”と書かれて大いにテレる、かわいいところのある人です。久保田さんのグループはどうもチューニングに忙しい様子。この日は声の調子もおかしくてと言っておりましたが、始めっからノリを期待する客側にとっては、もう少しガンバッてもらいたいんだけどね。で、その続きの悪ノリ大会を休けいをはさんでやったのでした。それから悲しい噂ですが、この吉祥寺の若者の唯一のROCK HOUSEがもうすぐ閉店になるらしいです。若者たちが自由なカンジで遊びに来れて、歌って騒いで、友達を作るなんていう場所が、又、ひとつ消えるというのは淋しいことでね。(略)。

■ニューミュージック・マガジン1973年7月号

吉祥寺のロック喫茶「OZ」は遂に8月一杯で閉鎖される。なお、この店でずっと録音されてきた自主制作レコード『OZ・ラスト・デイズ』については、都落ちの音取りを最後に全ての録音を終わり現在テープの編集中。8月中旬~下旬に完成の予定。レコード・タイトルは『OZ DAYS』になるもよう。録音されたバンドは裸のラリーズ、南正人、頭脳警察、カルメン・マキとOZ、四人囃子、久保田麻琴、ウエスト・ロード・ブルース・バンド、レイジー・キム・ブルース・バンド、都落ち、セブン。

■新譜ジャーナル1973年8月号

吉祥寺のロック喫茶「オズ」の閉店に際し、常連のミュージシャンが集ってのライブ『オズ・ラストディズ』が作られた。2枚組み3,000円で1,000セットの限定盤。裸のラリーズ、タジマハール旅行団、南正人、都落ち、久保田麻琴などが参加していて8月発売の予定。ほしい人は直接オズへ。また予約はオズへ。また新進カメラマン尾崎・ミチオ君の写真集「バークレイ・フリークス」も650円でオズで売っている。

■ニューミュージック・マガジン1973年8月号

OZ・ラスト・デイズ・コンサート 

8月29日(水)クリエイション、カルメン・マキ&OZ、タジ・マハール旅行団。8月30日(木)四人囃子、あんぜんBUND、頭脳警察。8月31日(金)ウエスト・ロード・ブルース・バンド、レイジー・キム・ブルース・バンド、アゴラ。9月1日(土)ジプシー・ブラッド、アシッド・セブン、都落ち。9月2日(日)裸のラリーズ、南正人、久保田麻琴。開演時間は、いずれも午後2時から、入場料は当日、500円。

■ニューミュージック・マガジン1973年8月号

先月号のこの欄でお知らせした、『OZ DAYS』に収録されるグループ名に誤りがあったので、お詫びして訂正します。収録されたグループは、裸のラリーズ、タージ・マハール旅行団、南正人、都落ち、アシッド・セブンです。なお、OZは、9月2日まで営業して閉鎖する。

■ヤング・ギター1973年9月号

金沢での「夕焼けコンサート」おしらせでございます(中川英治)

(略)まず場所から話しますと、石川県江沼郡山中町上原、新家工業前りんぽう園、というところでして、(略)この野外コンサート、実は、8月25日の正午から次の日の26日の午前中までブッ通しの、そう、All Night atdoor Rock Festivalになっちまうんです。(略)そうそう、出演バンド。只今決定のものは、久保田麻琴と夕焼け楽団、瀬川洋、南正人、裸のラリーズ、リリィ、レイジー・キム、めんたんぴん、音羽信、拾得ブルース・バンド、などの皆さんです。主催するのは「めんたんぴん」。協力するのは、吉祥寺「OZ」、京都「拾得」、両国「東京フォークロアセンター」、小松「Make Love Co.」の皆さんです。(略)

■ニューミュージック・マガジン1973年10月号

ロックハウスOZの12か月(手塚実)

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『ズブの素人から出発した』 ぼくのまわりで、この頃、ボコボコとお腹の大きくなっていく女の子が多くて、これは一体どういう現象なのかなあ。何かとっても暗示的みたいです。これから、夜、金沢まで「夕焼け祭り」という、コンサートに出かけようと思っていて、どんなものになるか非常に楽しみなのです。なにしろ野外コンサートに出かけるのは、ずっと前に箱根に行ったっきりで、ほとんど行っていないし、コンサートそのものにも余り出かけなくなったいま頃、なんでまた金沢くんだりまで出かけようとしているのか、自分でもよく理解しかねるんだ。でも、また何か変わって行くかも知れない、そんな時期みたいなものを感じさせるし、第一、ずっと東京に居たら腰が痛くなってくるような気がしてきた。ボクは物書きでもないし、まして、書くという作業がこんなにも苦しいものだとは知らなかった。こういう苦難の機会を与えてくれたNMMに皮肉でなく感謝しなくちゃ・・・・・・と思うんです。で、ボク自身を整理するという意味で、昔のことや昨日・今日の顔なぞ思い出したり、明日の夢を想像したりしながら、リラックスして書こうと思う。一体、OZがなんであるか、なんであったかと自問しても、単に「生演奏をやってた」なんて言えないし、もちろん、関りを持ってた奴の生活の一部がそこにあったんだし、それも様々に変化していったのは当然なことだと思うんだ。しかし、その変化は激しく加速度的にボクを襲って混乱させてしまった。そしてボクはあらためて自分自身を理解したような気がするんだ。去年の6月にオープンして、社会、生活様式のムーヴメントにもし拠点というものがあるのなら、吉祥寺の一角に、それは生まれようとしていた。去年の6月―その頃の吉祥寺というのは、若者達の手による新しい胎動のもつ“熱さ”があった。そして、それはアパッチたちの手による「名前のない新聞」の一連の発刊であったし、西へ西へと大都会からやってくる避難民、そしてフォークの観光地で、吉祥寺名士が闊歩している若い街であった。そしてOZが出来た。ある者は赤と白のテーブルクロスが気に入り、ある者はマンガと時間を交換し、男は女を、女は男を横目で見、麻痺したように音楽を見ていた。その頃のOZのミュージシャンの選択などは、人にやってもらっていたのだけれど、そいつがどうしようもない奴で、もう全然、作業的といおうか、少しも創造的に考えてくれないんでまいってしまった。最近、去年の7月ごろのスケジュール表を引っ張り出してみたんだけど、全くどうでもいいようなバンドばかりで苦笑しちゃったんだ。もっともボク自身、そっちの方の関係は知らなくて、人に頼らざるを得なかったし、しっかりとしたプロジェクトもなくていい加減にやっていたと思う。 

『南正人のギターでみんな踊りだす』 「名前のない新聞」の事務所がOZに出来たのは9月だった。活動が活発になり、全国にそのミニコミは流れ、新聞少年、少女によってそのメッセージが、インフォメーションが流れた。そして、10月に入って、新聞主催のイベント「BE IN MUSASHINO」をやった時が最高潮で、それは4日間にわたって行なわれたんだけど、ぐわらん堂ではフォークのコンサート、OZでは各界の講師の先生方をよんで、自然食、愛のヨガ、出産と育児、色彩心理、ギンズバーグのハンバーグ論争、オールナイト・フィルム・ラリーなど。でも、ボクがそのイベントで何が一番すばらしかったといえば、最後の日、そう、南正人氏を知ったということなんだ。そのころかなり色々なことに消耗していて、欲求不満気味でキツかったんだけど、「BE IN」最後の日のOZはまったくゴキゲンだった。もういまにも床が抜けそうなくらい。百人程が踊り出したもんだから、それも生ギター1本で。ストリップ・トリップだよ、全く。最近、八王子の彼(南正人)の家が焼けてしまったんだけど、試練じゃないかと思うほど彼は苦労している。今度、彼のレコードが2年半ぶりに出たけど、1枚目が良過ぎたせいかも知れないが、ちょと物足りなさを感じるんだけれども、まだまだ重たいから大丈夫でしょう。それから少したって、新聞の事務所がOZから出て行ったんだけど、ちょっと感情的なトラブルがあって、そんな感じになってしまったが、いまではその方が良かったとボクは思っている。本当に「地域に密着した運動」をしていくのなら利害関係だけの関係なんて意味ないもん。アパッチ!頑張れよ。それにしても、ミュージシャンの意識の低さは今に始まったことじゃないかも知れないけど、自分の言葉、自分の音というのを持っているのは本当に少ないし、観客は観客でもう麻痺してるんじゃないかなあと思う位ギクシャクしてるんだ。OZでは3回程、アメリカの人達と一緒にジャム・セッションをしたんだけど、最初、モーリーさんが、彼がフロリダに住んでいた頃は、土曜日の夜ともなれば近所の腕自慢の人たちが、ギターを抱えてクラブに集まってエンジョイしてたけど、日本へ来てからは、土曜日の夜も何もすることがなくてションボリ過ごしている、なんて淋しそうな顔してるから、じゃ、一緒にやろうよ、てなことになって始めた。これがえらい騒ぎで、ビールはガブガブ飲むし、あっちこっちからいい匂いはするしでみんなエンジョイしてるんだけど、そんな中にまじって日本の特に男の子がダメ。女の子は、たまにスッコぬけた子がいて優雅に踊りだしたりするけど、全体にギクシャクしていて、楽しいんだか楽しくないんだかわかんない感じで、どっちかにした方が良いんじゃないかなあ。少なくとも自分に正直になった方がいいと思うよ。どこかのデッチあげたバンドに、ティニー・ボッパー風のギャアーギャアーなんてのは別にどうでもいいけどね。でも、モーリーさんの奥さんというのは、ちょっとアホじゃないかと思うほど自由で、ボクを包んでしまう。この人のフリークさといったら信じられない位だ。この人を支えているものは一体なんだろうなんて思わせるんだけど、きっと、人生の楽しみ方を知ってるんだろうね。 

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『すばらしくズッコケたOZの連中』 ボクが非常に幸運だったと思うのは、ほとんどのロックの店は、音のことでとやかく周りから言われて難しいと思うんだけど、案の定、市の公害調査委員や紺の制服にお揃いの帽子に桜の花をつけたお兄さんが色々問題を起こそうとしてやってきたけれど、仲良くやってきた。経営的な問題にしても、OZの家主さんから、儲けないまでも、赤字にならないという条件で借りられたのは、非常に偶然というか運が良かった。最初は、今年の3月までという約束で始めたのだけれど、なんやかやと言って、結局、9月までやってしまった。しかし、ボクにとって、その6か月延びたことが幸いした。そしてその期間が色々な意味で充実していたんだ。それぞれ、個性的でズッコケた素晴らしい奴等が集まってきたんだ。そして、そいつらが、全然デタラメみたいだけど、それぞれ分担が決まり意識的に秩序を作っていった。そしてまっ先に踊り出したし文句を言った。OZのクレイジー達について話そう。サミー。彼は、昔、ボンド党で幻野祭なんかに行ってラリっていたらしいけど、「バナナ・フィッシュ」ってバンドがあって、今はつぶれてしまったが、そこのドラムを叩いていて、今では一緒に住んでいる仲だけどすごく正直者なんだ。一見、無骨者って感じでとっつきにくいけどハニカミ屋なんだろうね。今、南氏のバック・バンド・ドラムのために練習してるけど、裸のラリーズの正田君とサミーがふたりでドラムを叩いていると、兄弟みたいでおもしろいね。重たいドラムを叩くんだ。以前よくOZに、ドブから上って3年経ったんじゃないかと思うくらい汚ない格好で来ていたお客さんが居て、いつのまにか居ついてしまって色々と手伝ってくれたのがトオル君。顔を見ていると、こいつ白痴なんじゃないかと思うほどユニークな人なんだ(丸井のクレジットでグレコのテレキャスを買ってテケテケやっている)。サンタナからデッド、ベックまでコピーして、まるでそのパロディーをやっているんじゃないかと思う人がジュン。昔、インドやアメリカに旅して、そのせいじゃないんだろうけどインポだなんて話も聞いたけど、冗談じゃなくちゃ音楽なんてやってられないよなんて言ってた。でも、この頃やけに真剣にやってるけどどうしたのかな?「名前のない新聞」の創始者で、途中で、恐くなってやめちゃった人がドロンコで、博学な人なんだそうです。メカニックに詳しく、OZのアンプは殆ど彼にメンドウみてもらってるし、機械をいじってる時だけはなぜか落着いている。彼ら4人でクレイジー・ボーイズっていうバンドを作って、「モーニング・デュー」までやってるんだから信じられない。トラ猫のオクビ嬢は、OZで延べ9匹の子猫を生んだ。この猫、OZで最もユニークな“生き物”を自負していて、まあそれも多少は認められているところなのだ。センスの悪い人間よりは、よっぽどマシな審美観を持っていて、ヘタクソなバンドがやってくると事務所にひっこんで寝ているし、どんなに大勢客が居ても、店のド真中を悠々と横切って歩いている。一度、TVの取材の時に、カメラを真正面にすえられてもビクともせずに、ヒザの上でポーズをとった彼女には全く敬服してしまった。とにかく、いつも人を喰っていてスキを見せない偉大な「ネコ」である。まだまだ、たくさんの人達が居て紹介しきれないんだ。ところで、よくよく見ると、なんとまだ約束の半分もきていないではないか。ここでボクは原稿用紙とボールペンを投げ出して、ええいままよと金沢に向ったのだ。 

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『みんなスーパー・スターだよ』 「夕焼け祭り」はまったくゴキゲンだった。本当に久し振りで東京を離れた。真夏のアスファルトに車を走らせて9時間程、会場に着いた時はまだセッティングの最中で、人影もマバラだったが、その中に見かけた顔がいるわいるわ。やっぱりみんな来てるんだなあ、なんて思いながらあたりを見廻す。貝殻の格好をしたステージを取り巻く山々の緑の中を、虫の声が鳴り響いて景色を作るのを聞きながら、ボクは草の上でゴロゴロしていると、メイク・ラブ・カンパニーのマスターが来てとても素敵な所へ案内してくれた。そこは草むらの中にポッカリ穴のあいたような、まるで円盤が着陸でもしそうな場所で、そこで、おみやげなんぞをいただいた。それにしてもOZゴールデンボーイズの演奏は素晴らしかった。彼らは今度のステージが初めてで、一体どうなるんだろうと思ってたんだけど、その心配は見事にふっ飛んで、ボクがOZをやって本当に良かったなと思ったのは正直言ってこの時だった。音楽が好きで集まって、そして自分の手で音を創っていけたのだから、こんな素晴らしいことはないし、みんな、新しい自分を発見したと思う。もう大丈夫だよ。下北沢のジョプリン、マリちゃんに南さんはホレちゃったそうだけど、あれじゃ誰でもそうなっちゃうんじゃないかなあ。もうセクシーで腰をグラインドさせて歌う姿は、そのものズバリで、ボクの8ミリはずっと彼女のお尻を追っていたのだから。きっとみんな違う旅をしてるんだけど、もっともっとこんなお祭りをやろうよ。そして自分を知ろうよ。OZでは、昼間練習場として貸していたんだけど、若い子のバンドが必ずやるのが「ジョニー・B・グッド」で、ゴージャニーゴーゴーを、もう耳にタコが出来るほど聞かされた。思うんだけど世代の変り目がハッキリしたんじゃないかなあ。ロックンロールについて書いている人達は、一種の郷愁みたいなものを持ってるんじゃないかと思うんだけど、いまの若い人達はまったく新しい音楽ととらえていて、彼らのイージー・ダンスなんだろう。それにしてもロックンロールは花咲かりだなあ。それから、この頃、ブルースを聞かせる店が多くなったみたいで、ブルース・バンドも多くなったようだ。この本が出る頃にはつぶれてる店がOZ以外にもうひとつ。かの有名な新宿のマガジン1/2というブルース・ハウスである。ミスター・ブルース、キム大先生や京都のウエスト・ロードなんて言われるバンドが演奏していたところなんだ。色々、無理して好きなことをやっていたみたいだった。ボクらは、バンドの選定にしても、誰でも出すというんじゃなくて、良いものを聞いてもらいたかったし、そうすべきだとやってきたのだけれど、なんせバンドの絶対数が少なくて思うようにいかなかった。新しいバンドも聞きたかったし、そのチャンスを与えたりしてやってみたけれど、<自分の音>を出すバンドが非常に少なくて、かなり片寄っているようだ。今、ボクは、こないだ日本へ帰ってきたダモ鈴木が言っていた「ロックン・ロールなんか忘れちゃえ!ブルースなんかも忘れちゃおう!」って言葉が大好きなんだ。  

『新しい展開が起こりそうな予感が・・・』 で、こうやって、段々、音楽にのめり込んで、たまにポッカリ穴があいたような時、自分は一体、何をやってるんだろうと思うこともあるんだ。単純な話、好きでやってるんだろうけど、純粋に音楽を行為する意味とは別の裏の世界を知れば知るほど、陰謀や足のひっぱり合いが見えてくるし、それはどんな世界でもそうなんだろうけど、ビジネスの線になると、ミュージシャンの考え方とは別に物事が運んで行くし、そういった所で戦っていかなければならないと思うんだが、別のひとつのシーンを作らなければならない時期だと思うんだ。京都に「卑弥子レーベル」というマイナーがあって、2枚ほどレコードを出してるけれど、そのうち、ボクはポールさんの『ダウン・ウインド』というLPを聞いたけど、これが素晴らしくて、メジャーの会社じゃ、絶対作れない代物なんだ。是非、聞いて欲しいレコードなんだ。このマイナーの社長さん、ミツは、東南アジアの旅をしているようで楽器をたくさん仕入れて来るということだった。これから、すべて自分達の手で作って行こうと思うし、そういう時代になって行くのだろう。京都と言えば、金沢の帰りに京都へ寄って「拾得」へ行ったんだ。あんな所を見ると、もう一度やりたくなってしまうのも、おかしな話だ。一回こんなことをやってしまうと、もう刺青みたいなものでナカナカぬけきれないのかなあ。マスターのテリーさんとちょっと話をしたんだけど、彼が以前やっていた店「賁」の時は、みんな靴を脱ぎたかったから畳敷きにしていたけど、今度はみんなが靴をはきたくなったから石の床の倉を改造したところでやっているんだそうだ。金曜日には生演奏をやっているんだが、音のことで近所を気にして苦労しているようだ。東京では、OZがなくなり、マガジン1/2がなくなり、ジァンジァンもおもしろくなくなって行く現象の中でまた袋小路に入ってしまったようだ。今、青梅線の田舎の方に住んでいて、魚眼レンズでのぞいたように空がよく見渡せる。これがあたり前の空の姿なんだろうけど・・・。そして、この空には時たまというより割合ひんぱんに円盤が現われる。みんなナカナカ信用してくれないけど本当なんだ。かなり近くまで来ることもある。宇宙の彼方からはるばるやって来たんだろうか。彼らの目的は一体何かわからないけど、とにかく地球人とコンタクトしようとしていることは明らかなようだ。今のところ、ボクには光の球と航跡が見えるのだけなのだけれども・・・・・・。でも、人類に何か大きな変化が将来、人間の知識では推測できないような新しい展開がその上に起こる前触れのような気がするんだ。ボクのまわりのお腹ボコボコの女の子たちの子供が歩き始めるころ、世界はどんなふうになっているんだろう。彼らはたった2千年ぽっちの歴史にはあり得なかったような全く異質の体験を担う世代になるかも知れない。自分は生きていないだろうけど、そんな未来のことを切実に感じてしまうんだ。1年と2か月の間、全く新しい体験をしてボクは本当に幸福だったと思う。ボクを支えてくれた素晴らしいミュージシャン、共に素晴らしい一瞬を過ごした観客、非力なボクを助けてくれた大勢の友達に感謝します。

■ヤング・ギター1973年11月号

オズ・デイズ・ライヴ(元OZの住人)

今僕はヤングギターのオフィスに来て、急にこのレコード紹介の記事を書かされるハメになってしまったのですが、とにかくこのレコードを聞きなさい。きっとあなたが日本のアンダーグランドな音がこんなにも新鮮な物だと気づくと思います。そしてこれはその意味において日本のもう一つのシーンの記念すべき物です。一人でも多くの人が聞かれますよう、そしてあなたに愛と平和を。

■新譜ジャーナル1973年11月号

OZ DAYS LIVE 流れる歳月の間に何と彼らの音楽は美しくなってゆくのだろう(田川律)

タージ・マハール旅行団には、というよりも、そのメンバーのひとり、木村道弘とも随分長い間あっていない。はじめて、彼にあった時、彼はまだ、千駄ヶ谷に住んでいて、およそ音楽をやるなどとは思えない、不思議なデザイナーだった。アパート中を真赤に張って、襖には、奥さんのヌードをクイック・コピーしたものをベタベタ張って、ぼくが、ついうっかり長椅子でウトウトしようものなら、忽ちジョージ・ハリスンの「マイ・スイート・ロード」をかけて、それと、ぼくのいびきとをカセットで録音して、「これ誰の音楽だか分る?」などと、冗談めかして、からかったりしたのだ。それから、すぐに彼は、とても楽器とは信じられない、古い自動車のガソリン・タンクやオンボロ・ギターを使って、このタージ・マハール旅行団の一員になってしまった。レコードで聞くと、流れる歳月の間に、何と彼らの音楽が<美しく>なったのかと、びっくりしてしまう。そう、ホントに<美しく>なったのだ。それは、永いヨーロッパでの生活が、その演奏体験が、そういうように変貌させたのかも知れない。それは、ある意味では、彼および彼らの意図と違ってきてるのじゃないかとさえ思ってしまう。でも、心優しい彼のことだから、これはひょっとしたら、内心の顔なのかも知れない。それに比べて南正人は、相変らずである。いつも、正人と中川五郎が似ていると思ってしまう。それは音楽でなく、何となく、その生きざまとでもいったものなのだが、その正人も、例の如くしつように自分のブルースをうたってくれる。そういえば、ついに行くことのなかったここOZは、ひょっとしてなかなかいいところであったかも知れない。ロックン・ロールやハード・ロックや、タージ・マハールのような、何とも言いようのないものまで、悪戦苦闘して、とうとう閉めてしまわねばならなくなって。でも、渋谷にあったBYGで、あんなに沢山のグループ、はちみつぱいや、乱魔堂や、その他いっぱいが、生れてきて、結局、その場も駄目になってしまった。ロンドンのラウンドハウスのように、30近くもあったりしないのは、所詮、歴史の浅さなのだろうか。もう、ロックはおしまいだ、フォークが、ロックみたいに下火にならないようにしなければ、と訳知り顔にいう人たちは、ちっとも現実が分っていない。いや、そういうなら、ロックは一度オシマイになった方がいい。形だけが、そんなに華やかであっても、その内容が伴わないのなら、きっとオシマイになるし、そんなことに一喜一憂するのは、大てい誰かさんなのだろうと思ったりする。きっとOZもまた、形をかえて、登場してくることだろう。

■新譜ジャーナル1973年11月号

OZ DAYS LIVE まず一つのエポックを作りたかった(手塚実)

わづか1年ほどの期間であったが、そこに様々の時が流れ、生活が流れ、瞬間があり、ある者は旅に出、ある者は冷たく視、又ある者は始めた―。レコードという物は精神の栄養剤であって、それぞれ人に色々なシチュエイションを見せて<聞かせて>くれる物だと思う。そしてそれは純粋な意味で<音楽>であってそれ以外の物にはなり得ないと思う。しかしその音楽自体時代と隣り合わせの状態である事も明白だし、現に今回の『OZ DAYS LIVE』はまさに時代の要求だと自負している。海の彼方から毎日新しいレコードがワンサカ来て好みの物を買う。よい物もあればどうでもいい物も沢山あるし現に舶来品の方が需要がある。しかし日本のレコード屋さんというのはまったくどうしようもない。この間あるバンドのレコードオーディションってのを見物したけど、まったくディレクター氏のトンチンカンな頭ときたら思わず苦笑しちゃった。そしてそのデッチ上げの現場を目撃しても、まあ最初からそんな物だったんだろうけど。でもあんないつまでもやってたんじゃ絶対良い物も生れないし、第一売れないんじゃないかなあ。それにしても今回僕らの作ったレコードも問題が沢山あって、まず音にうるさい連中にはスカンを喰わされるだろうし、そういう聞き方をする人達は聞かない方が良いでしょう。僕らは出したレコードに責任を持ちたいしその点残念だったが、しょせん莫大な器材を用意することは無理だったし乏しい器材でどこまで出来るか実験みたいなものだった。自主製作って奴は製作費を被る覚悟がなくちゃならないほど売れないし、それが自主製作の特徴なのかもしれないがどこまで売れるか頑張ってみようと思う。今度京都の卑弥子レーベルというマイナーからポールさんのレコードが出たが是非一度それも聞いてほしい。それは音の問題じゃなくてメジャーの物とは明らかに違う雰囲気を作り出してることが解ると思う。ミツ、頑張れよ。まだ空想に終ってるんだけど、できたらスタジオを作ってレコードを出して行きたいと思ってるが、海のむこうではグラントやデッドがもうじき作るらしいし、素敵な連中が最もやりやすい状態にもっていこうとして頑張ってるし、日本でもそんな話を色々聞くにつれ時代の必然性においてもっともグッドな方法でやってみようと思う。これが出るころはもうOZは閉店してるだろうが最後のコンサートを映像というメディアに残すつもりです。そしてそれを見て又新ためて自分のいた所が確認できればと思う。そしてそれで多勢の人に今何が始まっているのかよく見てもらいたい。

■ヤング・ギター1973年11月号

「夕焼け祭り」リポート(増渕英紀)

(略)やがて、ハイライトであるオズ・バンドが登場してかなりラリリながらも抜群のギターを弾いてくれて、さすが日本のフィルモアが生んだグループだと思わせました。聞いてる連中もこんなタイプのグループは初めてだといった反応でした。おそらくあのカッコ良さから見てこのコンサートで一番評判が良かったのはこのグループでしょう。(ちなみにコンサート以来、出演依頼が殺到しているようです。)とにかくラリったギターの素晴しい事、信じられない位でした。この頃からそろそろアルコールが回り始めたのか、ノリだした連中が結構いました。(略)

■ヤング・ギター1973年12月号

屋根の上からのOZ達

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8月29日から9月2日までOZ LAST DAYSコンサートをもって'72年の6月から始めたライブスペースはおしまれつつも終了したが、小ホール特有の感触が確かにあったし演奏家もその気分を満喫していた。その最後の5日間のコンサートが信じられないほどのエネルギーと素晴らしい音楽と記念を残し、ここに紹介する写真はその一端を覗かせている。

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■ヤング・ギター1973年12月号

ロックハウス「OZ」がつぶれてあらためて感じたこと(石田善彦)

吉祥寺にOZという名のロックハウスがあった。などと書くとまるで大昔の話みたいに聞こえるが、知る人ぞ知るみたいな形で都内のロックマニアやミュージシャンの間で一種の拠り所といった存在だったこの店がカンバンを下ろしたのは、およそ二カ月ほど前のことだったし、その活動はトータルとしてもたかだか一年ちょっとほどのものだったろう。ほんとうに小さかった。ある種手作りの独特の個性と風格のようなものはあっても、店の造りそのものはかなり粗末だった。正直のところぼくはこのユニークな店のことを書くのに最適な位置にいたというわけではない。ただある一時期かなり熱心な客の一人だったというだけで、実際に経営していたスタッフとのつき合いもなく、内部事情にも詳しくない。ただぼくがわりとマメにこの店に客として出入りしていた間、ぼくはかなり解放された気分を味わっていたと思う。そのことの意味について、少し時間をかけて考えてみたいだけなのだ。都内以外の読者各位で、この店の名と活動に全くお馴染みでない方には、この小文が全国どこにでもあるジャズ喫茶あるいはロック喫茶というものの、一つのケーススタディだとして読んでいただけると、大変ありがたい。OZの暗く急な階段を少し脈搏の早まるような感じで上りつめると、いつもそこには過去何カ月かにこの店に出入りした人間たちの体臭が漂っているという気が何故かした。ぼくのかねてからの独断的ば見解によると喫茶店の存在のしかたというものはある種の<オンナ>なんかとよく似て、最初に出会ったときにいち早く相性がいいか悪いか、好きなタイプかそうでないか、一瞬のうちに互いに判別してしまう。ある時期無性にそこに立ち止まっていたくなったり、ぱたりと疎遠になったりもするのだ。OZの店の中にいつも漂っていた匂いは、人間はいつもひどく傷つきやすいもので、だから時々はどうしても一緒にいなければならない時があると教えるわけ知りの女にちょっと似ていた。体をゆすりながら全身がブルースのフレーズの中にささりこんでゆく、といった鮮烈な印象だった、レイジー・キム。この上もなく自由な精神が、生身の肉体として路上にごろりと投げ出されたという感じの南正人のステージ、その他それまでぼくの知らなかった少なくない数のバンドに初めて接したのはOZでだった。そして彼らの存在が最もか輝かしかったのはOZであった、とぼくは自信をもって断言できる。客観的な意味で評価されるべきOZの仕事というとおそらく都内で初めてのロックの本格的常設シアターだったこと、マスコミベースに乗らない実力のあるシンガー、グループを発掘し続けたこと、各種コンサートのプロデュースの中核となったこと、自主制作アルバムを生み出したこと、などとなるだろう。しかしぼくなどがOZのつぶれた今になって実感するのは、あそこには確実にロックあるいは音楽というものの魔力を知りつくした経営者とミュージシャンがいて、そのことの重要性を理解している客がいたという事実だった。そしてもちろんこの場合の経営者、ミュージシャン、客のそれそれは、時と状況が変わればそのまま位置が変わりうるものだった。簡単に言ってしまえば、73年の日本で日本のロック活動にのめりこむことは決してやさしくない。2年ほど前あたりの日比谷野音のような衝撃力は、マスとしては存在しない。そんなあまり冴えない状況の中でロックに固執した人たちは、なんとなく薄ぼんやりしたとりとめのない時代の中で、ロックというものが底辺にへばりついている現実のようなものを、ロックの与える衝撃あるいは感動のような形で直感していたのではないか。薄ぼんやりした、だれもかれもうれしそうなニタニタ笑いばかりの時代に、自分の<使命>みたいなものを案外敏感にキャッチしていたのではないかという気がする。そんな意味ではOZの広さなんかも、ちょうどよかった。お互いの顔が大体みわたせる程度の広さで、特に弾き語りなんかの時には本来の意味でのリトルシアターの良さが十分に発揮された時だったと思う。ぼくは、ナベやバラック住宅じゃあるまいし、「文化」などと言ったコトバをあまり軽率に使うことを好まないが、ある人間のサークルの中から共通の知恵=カルチャーが生まれることがあるとしたら、それはこんあ条件が満たされた時だと思うのだ。OZが何を残したかなんて、半可通のぼくが早急にまとめることはできないが、OZとその周囲に集まった客とが、ゆるやかにミュージシャングループの離合と成熟を眺め、支援し、共感していたことは、かけ値なしに素晴らしいことだった。もちろん、これでOZのやった仕事が完結したわけでもなく、音楽的な成果だってこれからの各ミュージシャンの活躍がその実質を決めてゆくのだが、お金のない貧しい若者たちがなんかを始めてゆくときに、さしあたって何が必要で、その時起こる障害はどんなものかといった基本的なアイデアははっきりと出たといえると思う。あおれは、アイデアと表現意欲をそなえた若者たちが、お互いの精神を尊重しあいながら共同しあってゆく、ゆるやかな形の生活のチエの集積と組織法だった。万事に心得顔の大人たちは、若い精神の工夫が生み出したフォークやロックといった創造物を、いとも易しく抵抗のできないやり方でマスコミに流布し力を奪ってしまう。大人たち、いやまだ若者のうちから大人びた仕草を覚えたがる若者たちですら、「他人よりソンをしたくない」と「他人にだけトクさせたくない」の間でやすやすと無気力になる。OZはそうした圧力を内部的に壊す力としてのロック、いや音楽というものを誠実にとっくみ合う力を示したと思う。ぼくはここで、ただ単にOZという東京の外れにあった一軒の店について語っただけだろうか。そうではなくて、「音楽」と「思想」があふれているという日本という貧しい国とその貧しい音楽状況について書いたつもりだ。

■ヤング・ギター1973年12月号

エレクトリック・ピュア・ランド(9/22 日比谷野外音楽堂)

土曜の夜だというのに、雨の降る野音は閑散としていた。それでも300人は入ったろうか、熱心なファンがステージの下に固まってジッと聞き耳を立てていた。雨をよけながら演奏するため、ステージの奥の方にひっこんでしまうことになり、どうしてもスペースが狭くなって、やりにくそうだ。ドラム4台を並べるという、期待のエレクトリック・パーカッション・グループも登場せず、残念だったのだが、妖しい魅力を放つカルメン・マキや奇声を発して叫び続けるロスト・アラーフやノリまくる頭脳警察を見ていると、久しぶりにゾクッとする興奮をおぼえた。途中で楽屋に入っていって、主催者の1人である高橋君に会った。ロストと裸のラリーズとが中心となって「OZ」の仲間達と結成したのがブルー・チアー・カンパニーだ。このブルー・チアが8月から準備をして、シリーズ化もねらっていたのだが、あてがはずれて、相当な赤字を出した様子。70年前後の野音の熱狂が忘れられない、と言う彼。別れぎわに「やっぱり激しいのがいいですね」と言ったら深く頷いていた。頑張ってほしい。本誌が出るころには、第二回の“ピュア・ランド”を計画して、準備のためにまた走り回っていることだろう。

■新譜ジャーナル1973年12月号

エレクトリック・オールナイト・ショー

11月の3、4日に埼玉大学でエレクトリック・オールナイト・ショーという意欲的な企画がある。出演はタージ・マハール・T、南正人、裸のラリーズ、頭脳警察、久保田麻琴と夕焼け楽団、メンタンピンetc、20近いグループの出演。アトラクションもあり、大騒ぎして楽しくやろうということらしい。主催はOZ。

■新譜ジャーナル1974年2月号

エレクトリック・オールナイト・ショー 爆発する日本のロック!

日本のロックが熱くなっている。11月の3日4日と埼玉大学体育館に繰り広げられたショーはきっとひとつの起爆剤となるに違いない。出演バンド20あまり、集まった人1500人近く。そこには生活から発生するやさしいロックがあった。

■新譜ジャーナル1974年2月号

エレクトリック・オール・ナイト・ショー 11/3~4(KAN)

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最近ロックコンサートというとどうもロックンロールが表面に出ているようなところがあるようですが、少し別な所ではうれしいことにロックがみちている場があって、そこでは言葉も生きることができて、うれしがらせてくれるのである。よいロックのコンサートがないかなあなんていつも目を耳をキョロキョロさせていた10月、地味なポスターが街角の汚ない電信柱にはりつけられてあるのを見て立ち止まってみると何かうれしくなってきて、胸に響いて、それでコンサートにはるばると行ってみると、やっぱりよいなあという感じで、内容の濃いロックショーだったのです。エレクトリック・オールナイト・ショー。埼玉大学の体育館。出演バンドが20あまり。最近にない大規模なもの。ずらっと書くとスペースが無くなるので、僕に関して主だったバンドを並べると、アシッド・セブン(したたか者達の素晴しいロック集団)、久保田真琴と夕焼け楽団(演奏の上手さも勿論だけれどその雰囲気はグレイトフル・デッドを想起させるもの。全員ノリまくってしまい、僕なんかも久しぶりに踊ってしまった。)それとレイジー・キム・B・B。後で聞いて全く残念だったのはニュー・ソウル・セッションの演奏の時居なかったこと。よかったらしいのです。ともあれその体育館にはロックがロックとして存在していて、“ロックと若者”風の空念仏とは無縁のロックが支配していたのです。それは現実の情況を考えあわせるとちょっと奇妙なんだけど、そこにあったエネルギーは現実とのズレを埋めてくるというよりむしろズレをズレとして提出できるたくましさを持ち合わせているような気がしないです。会場から出た後も一本の糸がそこに絡まって離れていかないのです。こういったものがいっぱいあるといいのになあと一人言を言ったら、目の前に白い息が広がって、もうすぐ今年も終りなんだということなのです。

■ヤング・ギター1974年2月号

コンクリートの中の拠点―ブルー・チアー・カンパニー(ヤング・ギター1974年2月号)

目黒の一角に居を構えるブルー・チアー・Co.ここに集まる連中は皆今までのコンサートに飽き足りないものを感じていた連中だ。73年7月に池袋のシアター・グリーンで開いた“エレクトリック・ピュア・ランド”がブルー・チアーとして取り組んだ最初のコンサートだった。今のところはロスト・アラーフと裸のラリーズが中心になって、バンド側と聞く側との両方から意見を出しあって、良いものを作って行きたい、と言う。ミュージシャンの気持はミュージシャン自身がいちばんよく知ってるし、自分達がコンサート作りに参加することによって、演奏する側からも聞く側からも満足のゆくコンサートをやれるというのがはじまりだった。だからブルー・チアーが主催するコンサートでは、P.A.など器材は絶対に良いものを揃えるし(当然のことなのだが)そういう面で手は抜かない。もちろん金銭的にはかなり苦しくなる。赤字の連続でたいへんらしい。だが「僕らはみんながやろうとしていることをやってるんだ。これが本物だというやつをね」と灰野君(ロストのボーカル)が言うように、ただコンサートや自主制作LP、舞踏、映画などにも手をひろげるというか、総合芸術の発展を目ざしているのだそうだ。そういう意味ではこれからの動向が大いに注目される。「とにかく、価値観を変えたいんだ」「言うなれば、前を向いて後ろ向きに前進するってことかな」と話す彼ら。大げさでなく本当に、新しい世代の総合文化センターのような役割を果たそうとしているのだ。そのためにも「生きていることをあらわしてるやつらをすべて集める」そうだ。なお、ブルー・チアーではスタッフを募集している。やってみたいと思う人は一度電話をしてみたら?

■ヤング・ギター1974年2月号

なまのロックを本当に聞きたい人のためのコンサート―エレクトリック・ピュア・ランド(1/26)

そのブルー・チアーCo.が主催する3回目の“エレクトリック・ピュア・ランド”が1月26日に目黒の杉田講堂で開かれる。コンサートとしてはとにかく凝っていて、極大アンプ使用、ライト・ショーやバックに映画を入れたり、おもしろい顔ぶれのセッションやら、いろんな企画をたてている。出演メンバーもロスト・アラーフ、裸のラリーズ、南正人、エレクトリック・パーカッション・グループにスモーキー・メディスンと並んでおり、耳をおおうヘビーなサウンドを期待している人には最高のコンサートになるだろう。中でもロスト・アラーフの異様というか、すさまじいステージを一度見てほしい。なにしろ「俺達はロック・バンドだけど、俗にいう8ビートのロックをやるわけではない」とか「すべてにわたって自分自身にまで挑戦する」「完成されないことを望む」等と言ってるくらいだからその音楽たるや、ロックのコンサートに行けばあれはジャズだと言われ、ジャズのコンサートに行けばあれはロックだと言われ、時には現代音楽風だったりする。決して中途半端なのではない。極限のギリギリまできわめようとするから、くだらないジャンル分けの思考では把えられなくなるのだ。こういう。いつまでもくたばらないような連中がもっとたくさん出てくると、世の中ホントにおもしろくなるんだようね。前夜、前夜とさわいだ時代は終わったけれど、そうさ、いつだって燃えてるし、いまも燃えているんだ。

■ヤング・ギター1974年4月号

1/26エレクトリック・ピュア・ランド―今、新しい時代が(千葉潔子)

『ロックは楽しいものなんだ』 1月21日にふった雪が、まだ残る歩道をすべらない様に気をつけながら、目黒の杉野講堂へ急ぐ。第3回エレクトリック・ピュア・ランドはもう始まっている。女性ボーカリスト‘マリちゃん’を中心にしたスモーキー・メディスンが、オリジナルを唄う。ただせっかくのオリジナルが英語であったこと。彼らにとって言葉は別に関係ない事があるのかもしれない。英語で歌うのはその方が、曲とあうからであってという事なら、それは仕方がない事だ。それとも彼らにとって英語はもう、わけのわからない外国語ではないのか―。そのへんのところは私にはわからない。しかし、まだ十代にみえるボーカル‘マリちゃん’は、楽しそうに歌っている。リズムが身体から湧いている感じだ。 

『いつまでも元気なステージを!!』 次は、ロスト・アラーフ。私にとっては9月の、日比谷野音エレクトリック・ピュア・ランド以来だ。あいかわらずの熱狂的な、灰野君(リード・ボーカル)のステージは、私をうれしくさせる。ジャズでもロックでもない彼らの音楽を、理解する事は出来ないが、それでも彼らの元気な(?)ステージは、いつまでも続いて欲しいものと思う。次に登場したのは、南正人。照明を押えたそれまでのステージに変えて、「もうすこし明るくしようよ」という彼の言葉で場内が明るくなる。「リラックスしていこうよ」彼、独特のステージが始まる。会場の前の方にいる客達が踊り出す。ステージにあがって踊り出す人もいる。60年代の熱気にみちたコンサートとは比べるべくもないが、比べる事自体、出来ない時代になった様な気がする。そのよしあしは別問題の事で、私達は、その変化を受けとめる以外仕方がないことなのだ。 

『新しい時代が始まった。』 最後に登場したのは‘裸のラリーズ’このグループも、9月以来初めて見たわけだが、この日の彼らは実にのびのびやっていた。ステージ中央に置かれたミラーボールがまわり始める。特に彼らのために用意されたという。それ程、効果をあげたとは、いいかねるが、それでも彼らのステージにかける情熱はうかがえる。別に、そのテクニックが特別すばらしいというのではなく、何となく気になるグループといった方がいい。何か目を離す事が出来ないといった感じなのだ。水谷君(リード・ボーカル)の個性といったものも影響大だろうが―。このあとセッショングループが演奏。最初から半分程だった観客は、この頃になると、又その半分程が帰り、暖房のきいていない会場は、しんしんと冷えてくる。ただステージとそのまわりだけが暑い熱気につつまれている。今、ロックは生活に密着したところで活動を始めた。観客も、ステージにたつものも、それぞれにロックを、自分達のものも、それぞれにロックを、自分達のものとしてうけとめだした。もちろん、それはまだ一部分の人達の間でしかない。ガランとした会場をながめながら私は思う。吉祥寺の‘OZ’がつぶれ、高円寺の‘MOVIN’も閉店した。彼らの活動の場は段々とせばめられ、彼らの活動の場は段々とせばめられ、彼らは活動の場を自分自身達が企画するコンサートに求なければならなくなってきている。これは確かに危険なことである事も否めない。一つの殻にとじこもった時、自分達だけのロックという考えに落ちこんでしまい、他人を必要としなくなる。その時ロックは、今をピークに衰退してしまうだろう。でも、この日のコンサートにもきていた若い層が、この危険性からロックを救ってくれるだろう。エレクトリック・ピュア・ランド。けして最高のコンサートではない。ステージ進行も照明も―。けれどそれは主催者達にもわかっている事だ。第4回エレクトリック・ピュア・ランドは今回のコンサートを超えていくことだろう。今、日本のロックは新しい時代に、はいった。それは、急に陽がさんさんと輝く時代に入ったのではなく、本当に序々に少しずつ変わった結果、到達した時代なのだ。新しい時代でロックが、どんな風な道を選ぶかわからない。それでも着実にロックは歩いていくだろう。だって日本のロックを好きな人達が、君達がそして私が、ここにいるんだから。

■新譜ジャーナル1974年5月号

OZから(手塚実)

吉祥寺に「OZ」という喫茶店があって、そこで好きな事やってたのでしたが、その店が終って何やろうかなぁーと考えてたんだけど、色々あって大変な時期でした。「OZ」が閉店した次の日にボクは結婚したのですが、なんせ女の子に弱いのでこのままでは骨までぬかれるのじゃないかと心配して仕事をしたのです。仕事―?去年の11月3日4日と埼玉大学体育館でのオールナイトエレクトリックショー。とても疲れたけど頭に穴があいて、皆んなにふさいでもらったほどお世話になったのです。冬が来てボクらはレコードばっか聞いたり、たまにパーティーやって冬を越そうとしてるのですが、そろそろ春に向って体操でもしておかないとダメなような気がしてよく歩いています。子供が生れてしまいました。今度は子供が恐ろしく見えてしまいます―。あどけない程脅迫されてるような気がして、で他に目を向けたいと思って又、ロックしていこうと思うのですが、ボクは大変あきっぽい方で、余り同じ事はしたくないのでして結局ロックの仕方が問題なのです。この不景気な世の中で景気のいい事は余りできそうにもないようだけど、案外反比例していてゴウカな事もできそうな気がしています。昔野音なんかでわけも解らずノリまくってた人達もかなり商売上手になって、ヒゲも立派になりましたけど、訳も解らずに突っ走る事も片手に持っていてほしい気がします。4/7(日)オレンジ・カウンティ・ブラザーズ、浅川マキ、南正人、4/14(日)リリィー、カルメンマキとオズ、裸のラリーズ、4/20(土)クリエーション、OZ BAND、久保田麻琴と夕焼楽団、内田裕也、4/25(木)テキサスパパ、アゴラ、森千秋、BLUE SOME Unity、レイジーキムB.B.、青梅線牛浜下車2分、福生市民会館、前売りのみ600円、PM4:00スタート、問合せ OZ、BYRDS。今度「YAA-HOUSE」という感じでやるのですが、OZがやるコンサートにはだいたいの常連が出演してますけど、浅川マキさんとか、内田裕也さんなどは初顔でやってもらうのです。この二人は完全なプロです。もちろん他の人達もそうでしょうけれど。風の便りに、海の向うでは皆んな若返っているそうですが、あなたはきっと若いでしょうね?若い時は老けて見せたいし、年を取れば若く見せたがるものらしく、色々苦労するのですね。だんだん暖たかくると羽が又はえてくるでしょうね。その時に是非会いたいですね、全国の少年少女諸君。

■新譜ジャーナル1974年7月号

コンサート白書 幻想に彩どられた4日間 OZ YAA HOUSEより

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ロックのコンサートもまづ銭勘定で始まる。そしてボクも予定を作るが予定は未定のとうり終ってみれば手には請求書の束。しかしボクは、まだ金もうけの為にだけコンサートをやっているのではないと思っている。つまりアマチュアなのだろう。多分。ガソリン代、PA費、照明代、BANDのギャラ人件費、著作権協会の支払いetc、どっちみち金はかかるのだ。何をやるにしても。でも一番大事な事は、それぞれスタッフとのコミュニケーションなのです。しかし何回もやってると段々なれてきてそれがもつれて、スピードがなくなってくる。共同作業をする場合、クールになる面は非常に大事だけど、Hotな部分もかならずもってないとダメだと思います。しかしプロのミュージシャンとかいうのはステージに立つとまったく別物になってしまうのですね。でも後姿は見えてしまうものです。だから生き残れる人は、大事な物をかならず客にあげてると思います。さもないと客のフラストレーションは返ってこない。欲求不満はそこらじゅうにある。王様にも乞食にも。振り返ってみるとかなりやってきたような感じがする。始めは、そう前か後か分からなかった時は突っぱしっていたようでもあり、のろのろだったようでもあった。ボクの好きなBANDのコンサートをやる。しかしきまってそのBANDはアンダーなのだ。でも客はアンダーだろうがポップスだろうがかまわない。その辺からカラクリが出てきて両方やるようになった。つまりアンダー、ボクが本当にやりたいBANDと、客寄せの為のBAND(ちょっと違うかな)ゴチャマゼを、それはそれなりにかなりおもしろいのだ。一目瞭然というやつで二つの違ったタイプがハッキリわかる。種類の違い。目指すものと、目指さぬものの。酒とストーンの違いも。そしてボクはふんぎりがついたのです。政治でもビジネスでも全て仕組があってそれは自然。調子がはづれていてもそれは自然だという事です。ピストルは誰に向ければいいか知ってるかい?ボクは最近ズッシリ重いピストルを持って歩こうと思ってる。そして撃つのだ。ボク自身と貴方に。高校生の君、これからコンサートに行く時はポケットにシンナー袋を持っていってほしい。それがギャラ何十万のBANDならなおさら。ファッション・ヒッピーの連中よ、君達は見晴らし塔があるのに気づいてほしい。そして素敵な少女は、何故踊ってくれぬのだろう。みんな貴女の自由を見たいんだ。願わくば、ボクも貴女も自由でありたい。(手塚実)

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■新譜ジャーナル1974年7月号

コンサート白書 OZ YAA HOUSE もっとラリッてしまおう(話し手 手塚実(ロック・プロデューサー))

手塚君は昨年閉店した東京の吉祥寺のロック・ハウス、OZを主宰というかプロデュースしいていた人。OZは今や大袈裟ではなく、日本のプログレッシブなロックを追及するファン、プレイヤーにとっては小さいが伝説のようになってきた感がある。勿論問題は色々と抱えていたが、その姿勢は確実に評価されていいし、そういった意味で手塚君のアビリティーにはこれからも期待する所が大きい。OZが閉店してから、昨年の秋の終りに大きなオールナイトのロック・コンサートをやったし、そして今度、(略)OZ YAA Houseという1ヶ月のシリーズコンサートをプロデュースした手塚君とOZ。彼の意見そしてコンサートの方法などに読者もきっと興味をひかれるに違いない。もしも君がロック好きだったらなおさらだ。

―ちょっと吉祥寺のOZのことを話して下さい。OZをやる前も何かコンサートとか音楽をやっていた経験などがあった?

T OZがぼくにとって最初だった。それがきっかけだった直接的には。OZに関してだけど、それがうまくいったかってことだけど、やっぱり僕がまだ方法を知らなかったという面ではきつかったこともあったね。ひとつに店を維持する為には客の入るバンドを入れなきゃいけない、でも金が高いという問題があるし、でもバンドを育てていかなきゃいけないこともあったし。そういったことよりぼくは想像的意識というかクリエイティブな場所を作りたかったんだ。その頃は状況としてもすっかりフリークな場所っていうのがなくなってしまっていたしね。

―そうした店をやって得たものって何?

T ものすごくたくさんあって思い出せないけど、まず自分がこれから何をやらなきゃあいけないかということがよく分かった。・・・・・・うーん、どうして閉店したかって言われたら経済の仕組の上でってことだけど、でもこのままやっていて何にも出てこなくなったという状況もあるね。馴れだけが残ってしまって。でもバンドは育てられたとは思ってるよ。勿論反省として今考えると音楽全体を把握していなかったということはあるね。

―OZを閉めてから一番最初にやったコンサートは何だった。あの埼玉大学のオールナイト?

T その前に、OZをやってる時に武蔵野公会堂で一度やったんだ。トラブルがあってそれ以後ぼく達には絶対貸してくれなくなったけどね。それでOZラスト・デイズといいうのをOZでやって、それから店に出てくれていたバンドとか新しいバンドを集めてやりたいという発想が埼玉大学のオール・ナイト・エレクトリック・ショーとなったわけ。

―最近としては大きないいコンサートだったよね。

T あの時はお客がみんな一晩泊ったでしょ、床でさあ、それでロックを聞いて、酒飲んで、ストーンしてあれで元気でたんじゃないかと思うな。そうだな、集まった人は1500人ぐらいで出演バンドが約20名ぐらいだったかな。でも現在はちょっともうあんなのは出来ないかも知れないな。特に金の面でね。オールナイトではぼくも強引にやっちゃって全てのバンド、ギャラ一万円均一なんてして、トラブルもあったけど何とか強引に出来たけど、現在はロックを金にしたいという意欲が強くなってるからむつかしいね。でもそうは言ってもロックミュージシャンっていうのはまだまだ気の毒だけどね。

―でも、フォークあたりに比べるとやっぱりロックって人が集まらないね。

T お客というのが変っているからね。昔はロックが好きな者がなんていうかやさしさなんてイメージでアコースティックな音楽に向きを変えフォークのブームでしょ。それもやっぱり倦きてくると今度はまたリズムが欲しくなるといった具合で、だからまず、オリジナリティというかお客が何を欲っしているかをミュージシャンが認識してないといけないんじゃないかなあと思う。とにかくロックのミュージシャンというのはロックの生活をしないといけないわけだ。そうしないとロックやれやしないよ。要するにクレイジーにってことかな。

―今度4月にやったYAA Houseのこと話してくれる。

T まず続けてコンサートやりたいということがあったね。それと内容だけど今度は割と売れてる人達を入れてやったけど、やっぱりそれは客集めという考えは当然あったけど、もうひとつはさあ、プロである人達をぼく達のカラーの中に当てはめてみてさ、プロで売れるというものがねどんあスタイルなのかというのを見てもらいたかった。

―ちょっとコンサートの具体的なこと聞きたいんだけど準備期間はどのくらい。

T 3ヶ月ぐらいかな。

―コンサートまでの手順みたいなもの教えて。

T 教えるって考えればわかるけど、まずミュージシャンのセレクトとコンタクト、PA屋(音響装置)の選択、証明クルーの選択、それからパブリシティー関係ね。

―何人ぐらいでやったの?

T ぼく達は会社組織じゃないから、友達なんかからつながって輪は広がっていくからね。((略)このコンサートは4月の4日間、1日に3バンド程度の会場の広さは400~500人ぐらいのスペースでのコンサートだった)

―ちょっと金銭的なこと聞きたいんだけど、4日間トータルでいくらぐらいかかった。

T 100万ぐらいだね。・・・・・・もっと具体的にといってもそんなのはたいして面白くないと思うよ。

―安いね。

T ぼく達は企業じゃないからね。やっぱりコネクションを一生懸命たぐってね。・・・・・・だいたい100万の内バンドへのギャラが50%で、PA費に20%、照明費が15%であとは会場費、印刷代、人件費、雑費というふり分けだよ。

―これからコンサートやりたいなんていう若い人に心がけて欲しいなんてことある。

T そんななまいきなこと言えないけど、そうだなあ、初めてならやっぱり金って言えば一番いいんだろうけど、本当に自分がやりたいコンサートっていうのを考えた方がいいと思うね。その後で、いろんな事考えた方がいい。とくにね、コンサートやる人は真面目にやって欲しいということがあるね。来た人に何かを持たしてやるべきだと思うんだ。やっぱり。

―時間もなくなってきたけど、日本とアメリカの差というか、違いというかそんなこと、どんな感じ持ってる。

T 言葉が違うとかさ思考方法がだから違うとか・・・・・・はっきり言うとドラッグの差っていうこと。それがあるとないとの差。日本でもそれがアメリカと同じように割に自由に手に入れば日本のロックの状況は変ると思うね。もっともっとみんなラリッた方がいいんだよ。

―最後なんだけどこれからどうする訳。

T OZからYAA Houseまでで一応区切りがついたという気がするし、やっとほんとうにもっと自分がやりたいことにいけるような気がしてきたね。それはスーパー・バンドと一緒にトリップできるということ。今時分が手がけられるバンドのプロデュースを見つけ出せたということ。それと旅行が必要になってきたね。

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